所謂、知的障碍者を施設へ入所させることの是非について思うこと

私の小中学校時代に、同級生の中に知的障碍者と直ぐに判る者がいました。周りの同級生も嫌がっており、私も同じクラス(小5と中1)になったことがあったのですが、嫌な存在でした。その者が、中学校に進学した時に同じクラスになったのですが、この時、私の担任の先生は、この者について、「教頭先生から、早く施設に送る様に言われた」と教室で話していました。クラスメートは、この話を黙って聞いていたのですが、この件について、この知的障碍者の家族の側が、「この地方の人にすがってでも、施設ではなく普通の学校でやっていきたい」と強硬に行って来た為、施設への入所は行われませんでした。しかし、この者については、学校の授業が進むにつれて、他者との差が激しくなってきたのも事実で、指名されても解答できないのが当たり前の様になっていました。また、美術(小学校時代は図工)や家庭科の作品の提出も行っていたということを見たことはありませんでした。私は、この様な知的障碍者については、施設に送るのが妥当という考えに賛成です。他の人の目があるからという理由で、一般の学校に通わせても、他の児童・生徒との能力的な差が日を追うごとに開いていくので、何れは知的障碍者であることが発覚するので、本人の為にもならないでしょうし、周囲も困る場合もあると思います。私は案と考えたのは、この様な者について早期に一般の学校への就学を諦めさせるのに適切と考えられる方法を学校側で採られることです。私の通っていた中学校では、美術の試験は筆記試験でしたが、必ず2B又は4Bの鉛筆を持参しなければならなかったということです。これは、50分の試験時間中に実技試験があるということです。実際に出題された問題としては、「ブロンズ粘土で、指を握った状態の手を作る際に、芯材をどの様に組み合わせれば良いかを、枠内に図示しなさい(高配点)」、「自画像を描きなさい(この1問のみ)」、「3学期に行う、プレス画の作品の完成予想について、画像を枠内に描きなさい(この1問のみ)」等といったもので、高得点とまでいかなくとも、或る程度の得点を挙げていくには、それなりの技能が必要になります。こういった問題は、私は普段からの心がけも含めて、良問と思いました。嘗て、城戸真亜子氏が雑誌で、美術というものは、普段からの心がけも必要だと書いていましたが、私の美術の先生も、似たような経験談を話していました。こういった問題に類似した問題で、音楽の試験では、複数の楽器の絵を枠内に描く問題も出題されましたが、キチンと授業を理解していれば、零点は免れるものだと私は考えています。私は、所謂実技教科で、この様な試験を行うことを小学校低学年から行うことを普段から行い、且つ、作品提出についても正当に評価出来れば、この様な知的障碍者を一般の学校に通学させることから施設へ入所させるといった方向に向かい易く出来ると考えています。また、私が小学校6年生の時の社会科の試験は、毎回、上半分は通常の形式で行い、下半分は単元に関連する、自由形式のレポートを参照物不可で行うものでした。これは、私は、社会科が超得意だったということもあり、こういった問題を義務教育の早期の段階で行うのが良いという考えにも結び付いています。理解力と表現力、これは受験技術に限らず、人間関係の基本です。こういったことを巧く行うには、それなりの知識も必要ですが、普段からの物事の捉え方や物事への取り組みも必要になると思います。授業に取り組めそうにない知的障碍者には、施設へということを早期に検討させるのは、こういった方法も採っていくのが妥当と私は考えています。元来、学校教育は、個々人に能力の限界を教えさせる場であると説いた、ある西洋の学者が存在していたことも興味深いことです(この件に関連した問題が、嘗て国家公務員1種試験行政区分で出題されていました)。数年前に関わっていた組織に知的障碍者が入って来て、迷惑行為を何度も行っていたということもありましたが、この者については、他の人も困った存在と話していました。私は、知的障碍者ということで、ただ単に差別をするというのではなく、そうでない人達が円滑な生活(学校生活も職場でも地域でもそうです)を送ることが、優先されると考えています。ノーマライゼーションの考えは必要であるとはいえ、それには限界があるのも理解しておかなければならないことです。同じ人間だからということで、これは困るという人を、同じ社会内で生活させることは、口でいう程簡単では有りません。家庭内ではともかく、そこから外に出た、組織で他者と同じ生活を送ることが出来ない者については、それ相応の施策が必要(場合によっては強制的な措置も必要)と私は考えております。アイフル 明細書